2017 Fiscal Year Annual Research Report
Thoughts of 'State Language' for Multilingualism
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17H07101
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Research Institution | Sophia University |
Principal Investigator |
西島 佑 上智大学, グローバル・スタディーズ研究科, 研究員 (40802484)
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Project Period (FY) |
2017-08-25 – 2019-03-31
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Keywords | 国家語 / 多文化主義 / 多文化主義批判 / 多言語主義 / 国語 / ナショナリズム / 排外主義 / 言語 |
Outline of Annual Research Achievements |
本研究は、オーストリア帝国やソ連、旧ソ連地域における、歴史的に存在した多民族・多言語の社会のあり方を「国家語」(Staatssprache)という思想から解明する。 2017年度は、計画書の記述どおり資料読解につとめた。国家語についての論述があるカウツキー、レーニン、保科孝一、田中克彦らの主要文献はすべて解読ずみである。 文献の解読内容の概要は、次のようになる。当初、オーストリア帝国で生まれた国家語には、現代でいうところの多文化主義・多言語主義的なあり方を「国家の言語」たる国家語に要請していた。 ところが、20世紀前半に国家語という概念がドイツ語空間から日本語、ロシア語へ伝えられる際に、ナショナリズム的に解釈されることとなった。まず日本語空間では、保科孝一によってナショナリズム的に解釈されたものの、1970年以降に田中克彦による国家語の再発見によって、ふたたび国家語という思想は多言語主義的にとらえなおされることとなった。これは1980年代にナショナリズム論が興隆し、ナショナリズム批判や多文化主義の議論が日本でもでてきたことと親和的である。 他方でロシア語に輸出された国家語は、別の発展をとげることとなたった。ロシア語空間の国家語は、ソ連時代のペレストロイカをへて、現代の旧ソ連地域では、よりナショナリズム=国語として解釈されるケースが散見されるようになる。とくにエストニアやリトアニアなどにその傾向が強い。もっとも、旧ソ連地域における国家語理解は、すべてが国語的といえるわけではない。キルギスなどは現代でも多言語主義的な意味での国家語理解がまだつよく残っている。旧ソ連地域のこうした背景には、ソ連崩壊が、主権国家・国民国家としての分離であり、各地域で抱えている問題や、国家としてめざしている方向性(国民国家なのか、多民族・多言語国家なのか)によって左右されているということができる。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
当初の予定どおり、史料読解を2017年度中に終えた。本研究の公開手段は学術書籍化であるが、書籍化のための原稿も執筆中である。その意味では順調といえるが、次で述べる理由により「(2)おおむね順調に進展している。」とした。 本研究の意義づけとしては、多様性や多文化主義を批判する声が拡大している現代において、なにがいえるのかという点をあげている。他の研究者らと議論しているなかで、この点をもう少し深めてもよいのではという指摘を数多くいただいた。書籍化の紙幅にも余裕があるので、現在は、こうした点をより一般的に論述する方向で加筆する計画である。
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Strategy for Future Research Activity |
本研究課題の今後の推進方策は、上述した①国家語という概念を、思想史としてあきらかにすること、②多様性・多文化主義に対する批判が拡大するなかで
①については、資料は読解済みであり、原稿執筆の段階である。また研究の公開手段としての出版も正式にきまっている。以上のことから①については予定どおりすすめていきたい。 ②については、政治哲学的に論じようかと考えている。具体的には、デリダとローティの論争から考察してみたい。多様性の提起は、20世紀後半に興隆したポスト構造主義からはじまっている。なかでもデリダの「脱構築」は、その象徴的な手法である。このデリダの議論を批判したのがローティである。ローティによれば、脱構築的な議論をし続けることは、いずれ多様性批判となってはねかえってくることで、結果的により好ましくない状況をまねいてしまうというものであった。現在の多様性批判が高まる状況をかんがみると、ローティの批判はあたっているようにみえる。
上記の議論は、国家語の議論にも転用できる。現在の国家と言語の関係には、大きく2つの立場にわかれている。1つは、脱構築的な観点からあらゆる言語の多様性の擁護をする議論であり、いま1つは(国民)国家的統合を目的とし、国内のその他の言語への関心は低い議論である。こうした対立に対して、本研究のテーマである国家語には、言語の多様性を擁護する要素と、国家的な統合を意図する両方がふくまれている。こうした観点から国家語の現代的なあり方を提唱してみたい。
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